初盆の話を妻としていた。
父が亡くなってから初めてのお盆がやってくる。
写真の前で手を合わせていると、ふいに娘が聞いてきた。
「なんでお盆になると、じっちゃんは違うところから還ってくるの?」
私は、嬉しかった。
まず違う世界にいるという娘の発想。娘は、おじいちゃんを見送ったことを知っている。それに亡くなったことも理解しているようだ。
でも「死ぬ」ということが何か。まだよくわかっていない。というか私たち大人も本当のところはよくわからない。死後の世界といってもそれが本当にあるのかどうか。それがどんな世界か。わかるよしもない。
「違うところ」って、どこなのか。
「還ってくる」って、どういうことなのか。
私は、答えられなかった。
「毎年夏に帰ってくるんだよー」そう言うしかなかった。
でも、その夜、眠れなかった。娘の質問が、頭から離れなかったからだ。
なんで私たちは、死んだ人が還ってくると信じるのだろう。
これは、いつ、どこで、誰が始めたことなのだろう。
命日から、5ヶ月
私の父が亡くなったのは、今年の2月だった。余命宣告から、ちょうどひと月で旅だった。
喪主を務めて、慌ただしく日々が過ぎていき、初めてちゃんと泣いたのは、お骨になった父を家に連れて帰り、 祭壇に飾られた遺影を見つめたときだった。
「なんで死んでんだよ」
そう叫びながら、30分間、一人声をあげて泣いた。
そして今年の8月に初めてのお盆が来る。今も父の写真の前に、好物だった饅頭が供えてある。
娘が「じっちゃんちゃん、これ好きだったの?」と聞いてきた。
「うん、大好きだったよ」そう答えながら、私はまだ、父がどこにもいないことを、本当には受け止めきれていなかった気がする。
調べてみると、日本だけの話ではなかった
お盆は、仏教の「盂蘭盆会」という行事に由来すると言われている。
お釈迦様の弟子が、亡くなった母を救うために多くの人に食べ物を施したところ、母が救われたというのだ。その故事が元になっているそうだ。
しかし仏教が伝来する前から、日本には
- 亡くなった人の霊は近くにいる
- 祖先が子孫を見守る
- 霊を大切にしないと祟ることもある
という考えがあった。
つまり、「死者はどこかに行って終わり」ではなく、「死者との関係は続いている」
この
「先祖への感謝」
という仏教の考え方と、日本に古くからあった「祖霊信仰」が混ざり合って、 今のお盆の形になったと言われている。
祖霊信仰。
亡くなった人の魂は、山や自然のどこかにいて、決まった時期に、家に帰ってくるという考え方だ。
ここで、ふと思う。
仏教からも由来しているということは、この風習は日本だけではないのではないか?
調べてみると、当たりだった。
メキシコには「死者の日」がある。骸骨の格好をして、亡くなった家族の写真を飾り、 故人の好きだった食べ物を用意して、賑やかに祝う。
中国には「清明節」というものがある。先祖の墓を掃除し、花を供え、静かに手を合わせる。
ヨーロッパのハロウィンも、元をたどればケルト民族の「サウィン祭」と言われている。
古代のケルト人にとって、11月1日は新年の始まり。
その前夜である10月31日は、
- 夏の終わり
- 冬の始まり
- この世とあの世の境界が薄くなる日
と考えられていたとされている。そのため、霊や妖精が現れると信じられていた。
ここがハロウィンの
- 死者
- 幽霊
- 魔女
といったイメージにつながっている。
死者の魂がこの世に戻ってくると、信じる祭りが世界各地にある。場所も、宗教も、時代背景もバラバラ。なのに、なぜか同じ発想にたどり着いている。死者は、完全には消えない。決まった時期に、また会いに来る。
これは、偶然なのだろうか。
人はなぜ死を受け入れられないのか
一つ、手がかりがあった。人間は、自分がいつか死ぬことを知っている、数少ない生き物だという説だ。
犬も猫も、恐怖は感じる。危険が迫れば、逃げる。でも「いつか自分は死ぬ」という未来を、 あらかじめ理解しているかどうかは、まだわかっていない。人間だけが、確実にそれを知っている。
そしてこれは、けっこう恐ろしいことだ。
自分がいつか消える。大切な人も、いつか消える。この事実に、正面から耐えられる人が、どれだけいるだろう。
私は、耐えられなかった。
だから、あの日、声をあげて泣いた。
もしかしたら人類は何千年もかけて。この「耐えられなさ」に決着をつけるために死後の世界があり、また会えることを信じたのかもしれない。
「消えるのではない。また会える」
その想いが死という、答えのない問いに対して、どの文明も似たような形で心を守る方法を生み出したのだ。
子どもに「死」をどう伝えるか
娘に、どう答えればいいのだろう。
「じっちゃんは、また会いに来てくれるんだよ」そう言うのは、簡単だ。
でも、それだけでは、なにか嘘をついている気がした。今の私に言えるのは、こういうことだと思う。
おじいちゃんは、もういない。それは本当のことだ。でも、おじいちゃんのことを思い出す時間を、私たちは自分たちで作ることができる。お盆に灯りを灯すのも。好きだった饅頭を供えるのも。写真を見て「これ好きだったんだよ」と話すのも。
それは、おじいちゃんが「還ってくる」というより、私たちが、おじいちゃんを「忘れない」と決めるとき。
故人は私たちの心の中で生き続けるのだ。
死者を想うことと、忘れないということ
娘はまだ、死というものを、ちゃんとは知らない。
娘によると別の地球が存在し、そこでじっちゃんやプリキュア達は仲良く暮らしていると思っている。(かわいい!)
だからいつか、また聞かれる日が来るかもしれない。
「死んだら、どうなるの?」
そのときは今よりも娘は大きいだろう。
果たして私はどう答えるのだろうか。
たぶん、また、うまく答えられない気がする。
「そういうものなんだよ」その一言の裏に、こんなに大きな謎があったことを、娘はまだ知らない。
でも、それでいいのだと思う。答えを渡すことより。
「なんでだろうね」と、一緒に考える時間の方が、娘の中に何かを残せる気が今はしている。
父が死んで、もうすぐ半年が経つ。
今年のお盆は、写真の前に、父が大好きだった饅頭を供えようと思う。
そして、また娘に聞かれたら。今度は、こう言おうと思う。
「パパにも、まだよくわからないんだ。一緒に考えてみよう」
コメント